「正規雇用=ハッピー」ではない令和時代、自分のキャリアの方向性の見つけ方。
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私たちは社会の中で生きていく上で、たくさんの人と関わって生きていく、そして関わった人との比較をして自分に「レッテル」を貼って成長していく。これが時に人を生きづらくしている正体であり、これから解放されるとまるで違う世界にきたかのような生きやすさを感じる。
社会は人のつながりと人が生み出した価値が自然と共存して存在している。社会で人とつながることはとても素晴らしいことであるが、人との「違い」により劣等感や不足感を感じてしまうと、途端に生きづらくなることがある。
幼少期から思春期にかけては良くも悪くも親の価値観の影響を受ける。親は自分が生きてきたプロセスの中で「こうあるべき」という価値観が形成されており、それを「正しいこと」として子供に教える。例えば「みんなと仲良くしなさい」「人には親切にしなさい」などがあり、それは”しつけ”や”教育”と呼ばれその教えを受けて私たちは成長していく。
多くの場合、それはその子供が生きる上で大切な考え方だが、思わぬ弊害をもたらすことも少なくない。私の例で簡単に解説したい。
私は長男として生まれ、初孫ということもあり、とにかくみんなに大切にされて育ったと実感している。そして私には、3つ離れた妹がいる。いまでも仲が良く、一緒にお酒も飲んだりする。母は多小、口うるさかったが、根本的に優しく愛情深い人だ。妹が生まれ、僕たち兄妹はなんの問題もなく育っていたが、幼少期には「お兄ちゃんなんだから我慢しようね」と言われることがあった。そしてちゃんと我慢できた時には、「我慢できてお利口さんだったね」と褒められたのも覚えている。
さて、このやりとり、一見どこにでもあるものだし、何も問題点が見当たらない、しかし、これが自分の人格に大きな影響を与える。
人は基本的に「愛される」(広義の意味での「愛される」)ことを欲する生き物だ。
「お兄ちゃんなんだから我慢しようね」「よく我慢したねお利口さんだね」という何気ないやりとりから、私の無意識は愛されるためのルールとして「私は我慢すると愛される」というルールを自分の中に作り出した。これは私が40歳手前にして自ら内観をしているときに、このルールが自分の中にあることが判明するのだが、気が付いてみると、幼少期には欲しいロボットのおもちゃを欲しいと言えなかったり、小学校でも自分の意見を押し込めていたり、とにかく自己犠牲でその場が丸く収まるなら、それでよしという行動をよくとっていたことに納得ができた。
これは母親のその一言に対する恨み節でもなんでもない、母には感謝しかない。そういう小さな出来事で、自分自身で勝手に思い込み、勝手につけたルールによって人は苦しむことがあるという一つの事例として捉えてほしい。そしてこのルールは意識的につけるのではなく、無意識のうちに脳に刻まれているというのが厄介なものでもある。
自分で勝手につけた「我慢すると愛される」は長年すると「我慢をしないと愛されない」というところまできていたように思う。大事なのはこれは全て自分で”勝手につけたレッテル”であるということだ。誰のせいではなく、自分で貼ったレッテルなのだ。
「あんたはバカだねぇ」と言われ続ければ、「私はバカだから愛されない」というルールを持つかもしれない、そしてそれが反骨精神となり、勉強し続け、そうでないということを証明することに躍起になるかもしれないし、「どうせ私はバカだから」と自ら可能性を閉ざしていくことも考えられる。
幼少期は親や兄妹との関わりのなかで、そして幼稚園や小学校では、それぞれの子供社会での出来事や関わり、また教師との関わりの中で、様々なレッテルを自分に貼っていく。
自分よりみんなと上手に話す友達をみて「私は人見知りである」というレッテルを貼り、室内で遊ぶのが好きなことをからかわれたりすると「私は引っ込み思案である」と自分でレッテルを貼る。仲間外れにされたりすることで「私は人に好かれない」とレッテルを貼る・・・等、人と比較して劣ってる、優れてると感じた時にそういうレッテルを貼りやすい。そして、そのレッテルを信じて、生きてしまうと、成長していく過程で、それをまた裏付けるような出来事が起こり、「やはり私ま◯◯だからできないんだ」とますますそのキャラクターとして生き始める。
算数が得意な人もいれば、体育が得意な人もいる、絵を描くのが得意な人もいれば、おちゃらけてみんなを楽しませるのが得意な人もいる、調べ物をしたらピカイチな人もいる。みんな違って当たり前であり、勉強ができないことが愛されない理由にはならないし、おしゃべりが下手なことが愛されない理由にはなり得ない。
違いがあるから価値なのだ。誰かになんてなる必要はなく、ありのままの自分でいるだけでいい。人によって好奇心が違うように、自分の好奇心を頼りに、違いポイントを伸ばしていけばいい。
“それがあなたの価値”なのだから。
人と比較して、不要なレッテルを貼る前に、まずは自分でその価値を認めてあげよう。
不要なレッテルがあることに気がついたら、その自分を認めてあげよう。
それができた時に、自分と違う人への理解や尊重する気持ちが芽生えてくるだろう。
そして、あらゆるものが調和して、存在していることがわかるだろう。
人見知りなんてのは自分で言い出して、自分で思い込んでるだけである。きっかけは誰かに言われたからかもしれないが、私はバカだからと思い込んでるのは自分である。無意識とはいえ自分でつけたレッテルは、自分で書き換えることができる。
まずは、そうでない理由を3つ事例を探してみよう。「人見知り」であれば、人見知りにならずに、話せたケースを探してみたらいい。きっと簡単に見つかるはずだ。それを発見したら「私は人見知りではないことも多々あるようだ」と思い始めればいい。
そして、人見知りだからみんなと仲良くできないではなく、人見知りをしていても仲良くしてくれる人がいるというケースも見つめてみよう。これも簡単に見つかるはずだ。
人見知りでも仲良くできる、受け入れられる、愛されると思えるだけで世界は別世界に見えてくる。
また、人見知りということのポジティブな側面として、人をよく観察して、無駄な付き合いはしないなどのプラスの側面を探してみよう。
だんだん「人見知り」が個性に思えてくる。人見知りだから愛されないのではなくそういうところがあっても、愛されるということを理解しはじめると見える世界はガラリと変わる。
人見知りじゃないところもある、人見知りをしていても愛されることもある。これこそが何よりも大切な感覚だ。「私は私のままで大丈夫」と思い始めると、自分で可能性の扉を閉ざしていたものが、少しずつ開き出し光が差し込んでくる。そういった無意識のレッテルを見つけたら、どんどん書き換えて、どんどん自分にOKを出せるようにしてきましょう。
自分にOKが出せるようになると、自然と他人にもOKが出せるようになってくる。そうすると、煩わしいと感じていた人間関係も、不思議と楽になってきますよ。
ULL編集長、マーケティングのノウハウと、エネルギーマネジメントを武器に、組織課題の発見と解決プランの策定、さらには実行する際のチームビルドと人材育成までを支援。
“日本にもっと「イイ顔」している人を増やしたい“という想いのもと、広告会社、エンタテインメント会社での経験を経てマーケティングディレクターとして独立。マーケティング課題の発見と、ソリューションの提案だけでなく、実行できるようメンバーの育成、チームビルディングまで行う。自身の実践的な体験からエネルギーマネジメントという独自の人材育成の理論とコーチングの手法で、人のポテンシャルを最大化し組織の本当の力を引き出す。
一般社団法人グローバルリーダーシップコーチング協会(GLC)の立ち上げで出会った藤井義彦氏と世界で活躍する講演家のジムバグノーラ博士をメンターとして師事、2018年、ジムバグノーラ博士より「PhB・マスター・プラクティショナー」として認定される。
【活動領域】
●マーケティング戦略 ●組織変革・チームビルディング ●パーソナルブランディング ●コーチング ●PhBマスタープラクティショナー ●クレイセラピー(国際クレイセラピー協会認定クレイセラピスト) ●エネルギーマネジメント